マクニカに転職して、シリコンバレーに赴任するまで

こんにちは、にっしーです。私は今、マクニカのシリコンバレーにあるオフィスで自社プロダクトを開発する仕事をしています。

マクニカに入社して今年で14年目、アメリカ駐在は6年目になります。今回は、ご自身のキャリアについてお悩みの方、マクニカへ就職・転職をお考えの方、将来海外で仕事をしてみたいとお考えの方に向けて、私のこれまでのキャリアについて書いてみました。少しでも皆さんの参考になれば幸いです。

■マクニカに入社した経緯
私は日本生まれなのですが、10代前半に父親の仕事の関係で4年ほどアメリカ暮らしを経験しました。日本に帰国後もアメリカに興味を持ちつづけ、学生時代に友人たちと作っていた雑誌では、古いアメリカのミステリー小説を自ら翻訳し、特集を組んだりしていました。そのようなこともあり、大学卒業後は、「日本にない何か」を海外から日本へ橋渡しする仕事がしたいと考えていました。就職活動では海外と日本の橋渡しができそうな名だたる企業を受けました。ただ、「自分は日本の大企業に合わないなぁ」と見切りをつけ、社員20名程度の翻訳会社に入社することにしました。

小さな会社の良いところは、仕事を通して、会社やビジネスの基本的な仕組みが体感できることだと思っています。例えば、1) 飛び込み営業、2) 新規開拓した顧客から仕事を受注、3) 必要な外注・内製の工程を経て納品、4) 請求書送付、5) 入金確認、という一連のフローをすべて自分で体験できます。というか、やらざるをえません。制作の仕事も、翻訳チェックから自動車メーカーの新車販売ガイドブックの編集・制作まで、いろいろ経験しました。しかし、自分が当初やりたいと思っていた仕事から遠いところにいることにも気づきました。あー失敗したな、どうしたらやりがいのある仕事ができるのだろうか、と悩みました。

当時、ある大型案件で一つ一つ手作業で行っていた仕事が、エクセルのマクロで自動化できたことがありました。小6の頃からPCを触っていて、大学も情報系の学部にいたにもかかわらず、ITの力をはじめて目にしたような瞬間でした。その頃からITについて考えることが増え、自分が追求している橋渡しの仕事はこの世界にもあるのではないか、と考えました。そして、英語が使えるITエンジニアの仕事を探した結果出会ったのがマクニカネットワークス株式会社(現:株式会社マクニカ ネットワークスカンパニー)でした。

■サポートエンジニアとして
当時、「エンジニアになる!」と大学時代の友人に話したところ、すごく驚かれたことを今でもよく覚えています。新卒ではITと関係のない業界に進みましたので、未経験の中途人材が簡単に目指せるものではないと思われたのでしょう。もちろん、人一倍勉強しないといけないと覚悟していました。ただ、上司や先輩、同僚に恵まれ、ストレスを感じることはほとんどなく、どんどん技術力を吸収できたのは幸運でした。

最初に担当した仕事は、通信事業者向け製品のサポートエンジニアでした。よくニュースで、「システム障害」という言葉を耳にすることがあるかと思います。大規模なシステムは、たくさんの優秀なエンジニアによる何年もの準備期間を経て稼働しており、本来、障害は起こらないものです。そんな万全を期したシステムで起きてしまう障害は、その性質からして原因解明が難しいのです。数々の障害対応を行いましたが、上司や先輩、同僚から学んだのは、逃げずに誠実に顧客に向き合う姿勢でした。また、強いプレッシャーのなか、どんなに難しく見える問題も、冷静に科学的な態度で臨めば、いつかは解決できるということも学びました。

■海外のスタートアップに影響を受ける
私はマクニカに入社する際、二つの目標を立てていました。一つはBDの仕事をさせてもらえるようになること。BDとは事業開発(Business Development)のことで、マクニカでは「事業化できそうなエレクトロニクス、IT分野の商材(プロダクト)を世界中から発掘する仕事」を指します。もう一つの目標は、アメリカで仕事をすることでした。

サポートエンジニアとして始まった私のマクニカでのキャリアですが、入社後間もなく新規で取り扱いを始めるプロダクトの立ち上げにSEとして関わるチャンスをもらい、「どのようなプロダクトポートフォリオをつくっていくか」という議論にも参加するようになりました。この経験は「将来BDをやりたい」と考えていた自分にとって、非常に有意義なものでした。マクニカの良いところは、こういう“個”を大事にするエンパワーメントの文化があるところだと思っています。

また、当時一緒にプロダクトの立ち上げを頑張っていた海外のスタートアップからも、大きな影響を受けました。アグレッシブさやスピード感はもちろん、ワールドクラスのチームで活躍する方々の生の姿を垣間見られたのは良い経験になりました。例えば、あるイスラエルの仕入先で、SEとプロダクトマネージメントを兼務していたPさん。イスラエル出張時に彼のオフィスを訪ねると、ヘブライ語、ロシア語、英語の三カ国語を巧みに使いこなしながら、次々と電話をかけて仕事を回していました。彼は語学力、技術力が高いだけでなく、製品の売り込みも非常に上手で、幅広い仕事を完璧にこなすすごい方でした。一方で、家庭も非常に大切にしており、「幼い子供のために夕飯は自分が絶対につくる」ということにこだわっていました。あれだけの仕事をこなし、かつ家庭も大切にする姿を見て、非常に驚いた記憶が今も鮮明に残っています。

■BDとしてアメリカへ
少しずつBDの仕事も任せてもらえるようになり、入社7年目には念願のBD専門の部署へ異動になりました。翌年にはシリコンバレーの拠点を強化する目的で、アメリカ赴任も決まり、入社時に立てた二つ目の目標も実現できることになりました。

シリコンバレーで、「いろいろなスタートアップと会って商材開拓している」と話すと「楽しそうな仕事だね」と返されることがあります。私も初めはそんな印象を持っていたのですが、実態はかなり泥臭いものです。実際のところ、BDは事業をつくるためには何でもする仕事だといえます。SEのように顧客からの質問に対応するし、営業のように売り込みもします。アナリストのようにテクノロジーやマーケットの情報も分析するし、ベンチャーキャピタルのようにスタートアップを追いかけます。相手がスタートアップだといっても、企業価値、社員数の両面でマクニカを超えている会社を相手にすることも多いです。ただ、日本から出張で訪れる方も含め、様々な方とお会いできる仕事であったことは間違いなく、私も多くの貴重な出会いに恵まれました。

シリコンバレーでBDとして活動した4年間は非常に学びが多く、今も続くテクノロジーの奔流を肌で感じることができました。一方で、プレゼンスが低下し、デジタル化のギャップが広がる日本の姿も目に映りました。さらに厄介だったことは、商社による橋渡しを必要としないプロダクトが増えつつあったことです。ハードウェア中心だったこれまでの世界がソフトウェア化していく中で、自分たちの価値について問う日々が続きました。

■新たなチャレンジへ取り組む日々
シリコンバレーにいると変な自信が生まれてくるもので、あるときから私は大胆な目標を持つようになりました。それはワールドクラスのプロダクトをつくること。商社に依存しない、セルフサービスを軸に成長するB2Bプロダクトを自分たちの手で作ってみたい。商社機能の本質が「ギャップを解消すること」であれば、今フォーカスすべきギャップは、「プロダクトを流通させること」ではなく、「次世代のプロダクトを生み出す能力そのもの」なのではないか、と考えるようになっていました。

約二年前に新規事業立ち上げをミッションとする組織に異動し、シリコンバレーで出会った仲間とこの目標に取り組んでいます。今つくっているのはZipteamというプロダクトです。チームでコラボラティブに各自のスキルを管理し、ある分野に詳しいひとを簡単に検索できるツールです。

チャレンジばかりの日々を送っている私に、最近学校でアインシュタインの伝記プロジェクトに取り組んでいる7歳の長女が、彼のこんな言葉を教えてくれました。

“Anyone who has never made a mistake has never tried anything new.”

最後までお読みいただきありがとうございました。
皆さんといつかどこかで一緒にお仕事できることを楽しみにしています。

先日説明員として参加したCES2022より。真ん中が著者。

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